博士号の意味について考えてみる。
昨日の夜遅く、無事に学位取得が専攻教員会議で承認されたとの連絡が主査のS先生からもたらされた。
ほっとしたと同時に、実は複雑な気分である。まぁ由緒正しい学校法人が発行しているのであるから世間一般に認められるのかもしれないが、いざ取ってみると「博士号をとったから何になるんだ」ということを考えてしまう。「博士号は『足の裏の米粒』だ。その心は、『とらないと気持ち悪いがとっても食えない』」という言葉をよく見かけるが、その言葉の意味は案外深い。
そもそも乙種の博士(いわゆる論文博士)の制度というのは日本固有の制度であり、規定の本数の論文がジャーナルに掲載されていなければならないという縛りはあるものの、本来ならば通わなければならない大学にほとんど行くことなく学位を申請するということである。この側面だけを見れば、悪名高き「ディプロマミルあるいはディグリーミル」が通信教育を隠れ蓑に簡単に学位を発行しているのと、やっていることはあまり差異はないと言えよう。文科省が論文博士の制度を今後取りやめようと判断したのも無理はないような気もする。
一方、社会人が課程博士としてやっていくというのも非現実的である。つまり仕事を持ちながらもう一回大学院に入学し直し、通いながら学位論文を執筆するということである。そうやって大学に再入学した人は現に職場にいるが、その人たちも毎日通っているわけではない。良くて1ヶ月に1日、ひどい場合は半年に1回なんて場合もあるようだ。誤解を恐れずに言ってしまえば、これは大学が「学費を納めれば学位を発行したげるョ」と言っているのと同義ではないだろうか。この切り口でみれば課程博士であろうと社会人である限りは学位を金(=学費)で買っているようなものかもしれない。それに論文数も成果のうちである大学にしてみれば所属の教員と共著の論文が発行されというメリットもある。そんな現実を目の当たりにしたら、論文博士という制度だけを「廃止すべき」とするのは納得し難い。けど休職して博士課程にきっちり通えというのはもっと非現実的な話だろう。
などとぐるぐると考えていると博士号の価値なんて、いったい何なのか良く分からなくなってくる。果たしてそんな苦労までして取得する価値があるのか。当たり前のことだが、博士号を持っているから良い研究者だと考えるのは早計だ。それは私が身をもっていくらでも証明してあげよう。一方、その逆のパターンを地でいくのが、ノーベル賞受賞で一世を風靡した田中耕一さんだろう。学位を持っていなくとも世の中に貢献できる素晴らしい研究成果をあげることが可能なことを証明してくれた。医師免許を持っているからといって、良い医者も悪い医者もいるのと一緒だ。
昔の上司でもあり、現在国立T大学で教鞭をとっておられるK教授も「博士の学位はスタートラインに過ぎません。学位を取得した後が重要なのです。」とことあるごとにおっしゃっているのを思い出す。博士号を取得したということは、半人前の研究者がひとまず一人前として認められるようになったよ程度の話なのかもしれない。学位は本当に通過点でしかなく「良い研究者」との称号を得るためには、もっともっと努力しなければならないのだ。学位を取って安心している場合ではないと深く肝に銘じておこう。